(2016年各種案内)
天ぷら 松(2016年12月)
恒例の大学同期会は、京都松尾の「天ぷら 松」で開かれました。今回の幹事は、大学時代に一緒によく遊んだ、かつてハンサムだった(今も?)小児科医です。御子息二人は京大医学部、阪大医学部に進まれています。
連れて行って貰った「天ぷら
松」は各界の著名人がよく行く店で、母からもその存在を教えてもらっていましたが、行ったことがありませんでした。最近では、ぴったんこカン・カンで、瀬戸内寂聴の自宅を訪れた後、林真理子と安住紳一郎アナが最後に訪れた店ですね。カラスミ、ウニ、青タグの津居山かになど食材も良く、スーパームーンを表現した料理や、北大路魯山人の食器など、ヴィジュアルも考えられています。幹事のおかげもあり、とても満足しました。
よく人は、料理店に対して“味が落ちた”とか、“以前の方が良かった”とか言いますが、実際はその店の水準は同じなのに、食べ慣れてしまったために有難味が無くなるという場合も多いのではないのでしょうか。経済学で言うところの、“消費量が増大すると、効用水準が逓減する”と言うやつで、美味しい料理を出す店であっても、何回も行くと新鮮味が無くなっていくものです。初回に超大絶賛のお店なら、二度と行かない方がむしろ良いのかも知れません。
見聞きし思うこと(2016年11月)
リーダーシップがあり、男前で、男性からも女性からも好かれたミスターラグビー平尾誠二氏が10月20日に亡くなりました。同じ時代を京都で過ごした人間として、私もですが、妻の方がより強くその報道に衝撃を受けました。伏見工業高校、同志社大学(3連覇)、神戸製鋼(7連覇)で全国制覇、第1回〜3回ラグビーワールドカップ日本代表選手、第4回は30歳代の若さで代表監督と、天国のラグビーの神様は平尾さんのことが大好きで、早く天に召されたのでしょうか。彼の同志社卒業は私の大学卒業と同じ年です。当時は同志社のラグビーと京大のアメリカンフットボールの全盛時代で、京都の街は沸いておりました。(最近はあかんけど。)京大病院時代に白川通を一筋入ったこぢんまりした居酒屋に行くと、同志社時代より一回り大きくなった神戸製鋼の平尾さんが仲間と呑んでおられたことが思い出されます。松任谷由実の『NO
SIDE』を聴きながら、御冥福をお祈り致します。
7月26日にはピアニストの中村紘子さんが亡くなりました。御主人である庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』の(私が所有する文庫では)95ページに確かに“中村紘子さんみたいな若くて素敵な”という文句が出てきます。よみうり寸評によると、「女優の名を色々書いたけど引っかかったのはお前だけ」「悪うございましたわね」という会話があったとか。そして、コラムは“どれほどのファンがCDに耳を傾けるだろう。中村紘子演奏、ショパン『別れの曲』”と結んでいます。きっと、恵まれた環境で才能があっても努力なしでは、ピアニスト中村紘子にはなれなかったことでしょう。
私にとって、『蒼ざめた馬を見よ』や『青春の門』の頃から五木寛之は苦手な作家の一人です。でも、『雨の日には車をみがいて』は大好きです。シムカ1000、アルファロメオ・ジュリエッタ・スパイダー、ボルボ122S、BMW2000CS、シトローエン2CV、ジャグヮーXJ6、メルツェデス300SEL6.3、ポルシェ911S、サーブ96Sが登場する「僕の愛した9台の車と9人の女たち」のお話です。
庄司薫と五木寛之のクルマ談義(ベストカー
S53.10.25)をネットで見つけました。五木寛之が「5年乗ったポルシェ911Sと別れたばかりで、ブルーだ」と言うと、フランソワーズ・サガンは「飼い猫と同じで、五木さん、また新しい猫を飼えば前の猫のことは忘れます」と答えたようです。対談当時、五木寛之はBMW635CSiAに、そして庄司薫はシトローエンSMに乗っていますが、庄司薫がとても“らしいな”と思います。
井上章一が学生時代、町家『杉本家住宅』の保存・維持に力を注いでいた仏文学者の杉本秀太郎氏に洛中の範囲を尋ねたところ、“祇園祭の山鉾巡行があるところ”と返答され、内心では“御所は洛中には含まれないのか”と驚いたとか。そうなん。
フレグランス〜ブルガリとプロフェム(2016年10月)
私は福知山のイオンのCut 1000で散髪をしています。お店のホームページにあるように、Speedy (less than 15minutes)、Low price (\1,080)、High
quality (reasonable for its
price)です。学生時代はちょっとお洒落な美容院で、勤務医の頃はホテルの理容室で散髪をしていました。“医者の中では外科医がファッショナブルですね”と話しかけられるのが苦手だったり、シャンプーやリンスの香りが気に入らなくて、結局帰宅してすぐ洗髪し直したりしていました。
フレグランスに関するこだわりは特に強くはありません。仕事中は無臭か、石鹸の香りくらいが良いと思います。普段は汗臭くならないようにムスク系のシャワーコロン、外出する時は柚希礼音も御愛用のシャネルのエゴイスト・プラチナムか無難系のエスティーローダーのプレジャーズ・フォーメンを使用していました。最初にエゴイスト・プラチナムをつけた時、“周囲が臭いな、なんの臭いや”と思ったら、“自分やったわ”ということがありましたが、今はもう慣れました。
女性でも身に纏える(ユニセックスの)フレグランスがオススメよ、と妻は言い、ブルガリではブラックや(夏には)アクアを候補に挙げました。また、車の雑誌にマンの紹介が載っていたので、プールオム・エクストレームも加えて、4種類ブルガリのフレグランスをネットで購入しました。プールオム・エクストレームとアクアは無難系で、ブラックは印象的で一番好き、マンは大人っぽいと思います。
シャルルのシャンプーとリンスはプロフェムを使っています。福岡県から伊丹空港へ到着した時の香りを妻がとても気に入りました。ブリーダーさんに聞いて、プロフェムのシャンプー、リンスを使うと、毛並みがサラサラツヤツヤで、とても良いフレグランスです。
白衣(2016年9月)
白衣は医師の作業着であり、産婦人科医には血液、羊水その他が飛びかかりますが、いつも清潔に保つことが必要です。
ストラスブルゴ大阪店にクラシコのドクターコートを買いに行きました。なかなか良かったので、ネットでケーシーも手に入れました。それにしても、大阪は京都や神戸と比べて、同じブランドでも品揃えが派手ですね。また、車の様子も他の都市とは異なります。同じ日に若草色のロールスロイス・ファントムと(ブリティッシュレーシンググリーンではない)鮮やかなグリーンのベントレー・コンチネンタルGTを拝めたりします。
私は主にケーシーを着ます。最大手のナガイレーベンでもアツロウタヤマなどデザイナーものを販売していますし、アディダス、ルコックスポルティフ、ミズノやアシックスなどスポーツブランドのものもあります。好みの白衣を見つけるのは楽しいものです。
赤頭巾ちゃん気をつけて(2016年8月)
私の姉は高校生の時に理転し、腎臓内科の医師になりましたが、文系のまま文学少女を貫き通しても素敵だったと思います。(分別のある優しい人なので、きっと患者さんにとって良いお医者さんになっていることと思います。)
庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』は1969年の芥川賞受賞作で、高校生の頃の姉の本棚に単行本がありました。『さよなら快傑黒頭巾』、『白鳥の歌なんか聞えない』、『ぼくの大好きな青髭』ともども、私は鬱病の回復期に甲府で再読しました。
「世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないか」、ガールフレンドに電話すると、「必ずママが出てくるのだ」という書き出しは有名です。スマートフォン全盛の現代では、彼女のお母さんとお話しすることを前提に、ドキドキしながら好きな女の子の家に電話するなんてことはありません。昭和44年(1969年)東大入試が中止になった年の2月のお話ですが、本年4月29日(昭和の日)の読売新聞に「昭和の思い出」として取り上げられたり、3月11日の毎日新聞で「観念的な自問自答の後に来る珠玉の最終盤」と褒められたり、今でも話題に上ることがある私の大好きな小説のひとつです。内田樹風に言うと、別にサリンジャーも庄司薫も両方読めばいいと思うんだけど(どっちも面白いし)。
ANA国際線定期便就航30周年(2016年7月)
雑誌『pen 2016/6/1』の“最強のエアラインを探せ!!”は、『pen 2014/5/1』の“エアライン最終案内!”以来のairline特集でした。真ん中辺に“JAL vs.
ANA”の特集があります。見開きを開くと、客室乗務員の歴代制服が載っており、JALもANAも現在は10代目のコスチュームになっている様です。妻が買ったANA創立60周年記念オリジナルCA
Liccaちゃんは9代目までですが、うちのリカちゃんが前列中央の7代目の制服を着ているのは言うまでもありません。
ANA vs.
JAL(2012年7月)でも述べたように、1952年ヘリコプター2機で始まった日本ヘリコプター輸送株式会社(NH)を前身とするANAは躍進を遂げ、最近は宇宙飛行士の大西卓哉さんの前職が全日本空輸パイロットであったことが話題になりました。本年、国際線就航30周年を迎えた全日空の客室乗務員の会合が先日東京で開催され、妻も参加しました。自身は短期間の在籍でありましたが、「組織が大きくなっても、成功しても常に謙虚であれ」という創成期の伝説的なCAであった方のお話があり、かつての教官との再会があり、パワフルに仕事や家業に従事する先輩や後輩との出会いがあり、力と意欲をいただいたと申しておりました。
時代の移り変わりと個人のUpdate(2016年6月)
いつの間にか、うちのしゃぶしゃぶのお肉は広小路の『中島本店』のものに変わり、エスプレッソはネスプレッソのアルペジオにバトンタッチされています。時代は移り変わり、少年は青年になり、いつしか壮年を経て、老年になるのでありますが、ポロシャツを着ると襟を立ててしまうのは控えた方が良いのでしょうか。1960年代末期から流行ったバギーパンツやベルボトムなどのソフトでルーズなスタイルは廃れ、近年スキニー、テーパード一色だったのに、最近はガウチョパンツなどのワイドパンツが特に若者向け雑誌によく載っています。『プラダを着た悪魔』でミランダがアンドレアに語るように、はやりのシルエットも色も全部ファッション業界のトップクリエーターが作っているのだとしたら、流行最先端の人々は単に踊らされているだけなのかも知れませんが、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々、とも言えます。
同志社法法(2016年5月)
4月に長女が同志社大学法学部法律学科に入学しました。一度も受験を経験せずに人生というレールを歩んでいますが、彼女なりの頑張りを評価したいと思います。結局、中学から大学までの10年間、妻と同じ今出川の学び舎で過ごすことになります。
中学高校時代に公私ともにお世話になり、この春休みにはNYに一緒に連れて行ってもらった家庭教師の美人のお姉さんは、同志社大学法学部から大阪大学経済学部に転学し、その後三井物産に入社したバリバリのキャリアウーマンのようですが、長女には同志社で4年間楽しい学生生活を送って欲しいものです。大学生活は長いようで短い。
器が小さい(2016年4月)
『世界一難しい恋』第二話で、大野智社長が小池栄子秘書に“変ではありません。器が小さいのです。”と言われていました。
閉鎖的、排他的で、自分の意見だけを主張し他人の話を聞かず、気に食わないことがあれば感情的に相手を罵倒し、己の価値観に固執して小さな同一性だけを守ろうとする。人間としての器の小ささを常に自覚しているが、改善しようと試みても上手くいかない。
解決方法を御存知の方は、是非、私に教えて下さい。また、これまで私の言動で御迷惑をかけた数多くの皆様にお詫び申し上げます。(えらく抽象的ですが、心当たりがある方はたくさんおられると思います。)
スタン・ゲッツのイチブトゼンブ/反撃〜村上春樹とその代打内田樹の場合(2016年3月)
JAZZ初心者の私は、まだまだ“アナタは私のほんのイチブしか知らない(by
B’z)”とジャズマンに言われている気分がします。JAZZのCDを買い漁り始めるまで、スタン・ゲッツは『イパネマの娘』などで有名なボサノヴァ専門のテナーサックス奏者と思っていました。認識不足も甚だしく、40年代の「クール・ゲッツ」から50年代の「ウォーム/ホット・ゲッツ」、60年代の「ボサノヴァ・ゲッツ」はもちろん、70年代以降にマイルス・デイヴィスやハービー・ハンコック、チック・コリアが新しいクロスオーヴァー・サウンドに移っても、ジャズの王道を貫いて「インプロヴァイズ」を追求する彼の姿や、晩年に肝細胞癌に冒されながらケニー・バロンと紡いだ白鳥の歌である『People
Time』などはとても印象的で奥が深いです。
村上春樹は『ポートレイト・イン・ジャズ』の中で、“僕にとっては最終的にはスコット・フィッツジェラルドこそが小説であり、スタン・ゲッツこそがジャズであった。”と語っています。そして、『意味がなければスイングはない』では、スタン・ゲッツは10代の頃からアルコール、ヘロイン、バルビツール、アンフェタミンなどのアディクトで、何度も刑務所の御厄介になった悲惨な私生活を送りながら、“ひとたび楽器を手にすれば、天国に直結したようなファンタスティックな即興演奏を繰り広げることができた。そういうところは、モーツァルトに似ているかも知れない。”と賞賛しています。
私は、村上春樹の小説やエッセイに対して「何となくいい気分になって、肯定してしまう派」だと思います。年齢的なこともあると思います。逆に、彼が好きでない人の中には強い嫌悪感を持つ人もいるようです。蓮實重彦は“村上春樹作品は結婚詐欺だ”と辛辣に述べたことがあります。賛成はしませんが、発言のニュアンスは理解できるような気もします。
それに対して、内田樹は主張しています。“どうして文芸批評家たちは村上春樹をあれほど嫌うのか。村上春樹の仕事を積極的に評価している批評家は加藤典洋さんくらいしか見あたらない。あとの批評家の過半は「無視」または「否定」である。『すばる』の蓮實重彦の発言を見せてもらったけれど、すごい。“村上春樹作品は結婚詐欺だ”(そのときだけは調子のいいことを言って読者をその気にさせるが、要するにぼったくり)というのは、批評というよりほとんど罵倒である。シンポジウムの締めでの蓮實の結論は“セリーヌと村上春樹ならセリーヌを読め、村上春樹を読むな”というなんだかよくわからないものであった。別にセリーヌも村上も両方読めばいいと思うんだけど(どっちも面白いし)。そもそもある作家を名指しして“こいつの本は読むな”というのは批評家の態度として、よろしくないと思う。“まあ、いいから騙されたと思って読んでご覧なさい。私の言うとおりだから”という方が筋じゃないのかな。”(http://blog.tatsuru.com/archives/000407.php)なかなか説得力のある文章です。
更に内田は続けます。“蓮實は村上を罵倒する前に、どうして『表層批評宣言』が世界各国語で訳されて、世界各国から続々と「蓮實フォロワー」が輩出してこないのか、その理由についてせめて三分ほど考察してもよかったのではないか。”とある意味、村上に変わって蓮實を批判しています。
『村上朝日堂の逆襲』で、“悪い批評というのは、馬糞がたっぷりとつまった巨大な小屋に似ている。もし我々が道をあるいているときにそんな小屋を見かけたら、急いで通りすぎてしまうのが最良の対応法である。「どうしてこんなに臭いんだろう」といった疑問を抱いたりするべきではない。馬糞というのは臭いものだし、小屋の窓を開けたりしたらもっと臭くなることは目に見えているのだ。”と批評に対する無視を決め込んだ村上ですが、『職業としての小説家』では、“ある高名な評論家からは「結婚詐欺」呼ばわりされたこともあります。たぶん「内容もないくせに、読者を適当にだまくらかしている」ということなのでしょう。”と言及し、“いささか礼節に欠けるのではないかという気がします(あるいはディセンシーの問題でなく、ただ比喩の選択が粗雑だったというだけのことかもしれませんが)。”と続けています。「オリジリナリティーについて」の章は村上の本音が聞けて、とても面白いです。
2台持ち(2016年2月)
『ENGINE3月号』は新年恒例の初夢企画 “理想の2台持ち”でした。中でも一人目の「ASTON MARTIN DB5 VANTAGEとRANGE ROVER VOGUE」、二人目の「TRIUMPH
TR3A (1959)とPORSCHE 356SC (1964) 」がとてもとても羨ましいです。私は、ヴィンテージカーのマニアではないし、古い車も好きな方ではありません。FERRARI
365GTB/4もJAGUAR E
TYPEも特に興味ありませんが、DB5と356は欲しいです。ボンドカーとしてのDB5はミニカーもプラモデルも子どもの頃持っていました。色々な装備のうち、せり出し式防弾装甲、イジェクトシート、ホイールのスピンナーなどは特に大好きでした。ポルシェセンターに356の情報を聞いたり、356のレプリカであるインターメカニカを見に、加古川のウルフブルグ商会の故堀井正昭さんのところに行ったりしたことがありました。インターメカニカに911の空冷エンジンを載せることも考えました。やめましたけど。
私の現在の2台持ちは、RUBICON号と991 CARRERA
Sです。車なんてものは、実用以外には、自己満足と自己顕示以外の何物でもありません。この2台はとても良い組み合わせだと自画自賛できます。(家族は2台とも乗るのを嫌がりますが。)
大学の医局時代のボスは、“岡本君、生活をエクスパンドさせすぎない方が良いよ”と言っていました。そして、ダウンサイジングの時代です。2台持ちが、ちょっとだけいじった新型マツダ・ロードスターと20年振りのモデルチェンジが噂されるジムニーの改造仕様の組み合わせでも良いと思います。ロードスターに試乗したくて、マツダの千里店でお願いしたら、対応された感じの良い女性が私の共栄学園高校時代の担任だった生物の先生の娘さんであることがわかって驚きました。ロードスターは原点回帰しており、車重を軽くし、敢えてパワーを抑えてバランスを取ったとても良い車でした。一方、とことん改造したかっこいい10台以上の新旧ジムニー軍団を最近高速で見ました。きっと、オフロードコースへ走りに行くのでしょう。
お高いミシュラン三ツ星のお店でなくても、日本ではとても美味しいおうどんやカレーライスや小籠包や定食を食べることができるのと同様に、高価でなくても車好きを唸らせる日本車が存在するのは誇るべきことですね。
反撃〜井上章一の場合(2016年1月)
井上章一の「京都ぎらい」について、“京都は好きだけど、京都人は…”と林真理子や鹿島茂も週刊文春で言及していました。話題の本書は京大生協ショップルネでも、山極総長の「京大式おもろい勉強法」、「村上春樹雑文集」に次いで文庫新書部門で売り上げ第3位です。嵯峨で育ち、現在宇治に暮らす屈折した(させられた)洛外人である筆者が洛中的な価値観が大きくのさばる街京都について痛烈に考察しています。(尤も、井上章一さんがたとえ洛中に生まれ育ったとしても、或る程度ひねくれた性格になってくれていた筈、と私は思います。)
下京の杉本家当主に“君、どこの子や”と聞かれ、“昔、嵯峨のあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥(こえ)をくみに来てくれたんや”といけずを言われた掴みから始まります。中京の老舗の御令嬢が、“とうとう山科の男から縁談があったんや。もう、かんにんしてほしいわ”と語り、その理由が“そやかて、山科なんかいったら、東山が西の方に見えてしまうやないの”であったとか、宇治出身のプロレスラーであるブラザー・ヤッシーが上京のKBSホールで京都へ帰ってきたというアピールを試みた時、“お前なんか京都とちゃうやろ、宇治やないか”と罵声を浴びせられたとか、東京のメディアにおだてられて舞い上がる京都をみくびる度合いが一番強い大阪人が高槻の人に向かって、“あんたら、もうほとんど京都やんか。大阪ちゃうわ。いっそのこと、京都になってしもたらどうや”とからかうとか、
“おもろいやないかい〜。腕上げたな〜”と思います。
前段で下京、中京、上京という地名が出てきました。うちの自宅の造作をお願いした夷川の「宮崎木工」や、最近北千里の家具をお願いした「家具の宮崎」で
“洛中とはどこを指すか?”という話になり、平安時代と中世、近世、現代では異なるとか、北大路、東大路、西大路、九条通の中とか意見が出ましたが、“結局、中京区、上京区、下京区かな”と結論されました。宮崎木工が内装を担当され、7億円の部屋があるという三菱地所のマンションもギリギリ上京区ですね。
話は戻り、本書で最も痛快だったのは、“はっきりと、釘をさすかのように、洛中の優越ぶりを語る人もいる。たとえば、今はなき梅棹忠夫氏がそうだった”というところです。私は、京都の人の中華思想(2009年9月)で、“梅棹忠夫ほどの人でも、現在京都に住んでいても他の場所から移って来た人は他郷の人と一括りで、生粋の京都市民であるところの私と他郷の人との間には深い溝ないしは堀があって、お互いを隔てている、ときます。あんた、京都なんて東京と比べたら勿論、大阪と比べても随分田舎でっせ。それに、あなたさまの祖先を辿ると、京都市でも日本でもないところに暮らしておられたんとちゃいまっか。”と述べたことがあります。
国立民族学博物館に日本全国の方言で「桃太郎」を語る装置があり、京都市のボタンを押すと館長であった梅棹氏本人の京都弁が聞こえてくる。お国言葉に優劣をつけない、公平かつ民主的なしかけであるという、猫をかぶったとしか言いようのないそんな見かけの裏に、私は京都人の中華思想を読む。嵯峨をあざけった西陣の選民意識がひそんでいる。中京の新町御池で生まれそだった友人にその話をしたところ、“京都を西陣のやつが代表しとるんか。西陣ふぜいのくせに、えらい生意気なんやな”というおどろくべき返答が帰ってきた。京都はこわい街である。三十数年来の友情が、音をたててくずれたように感じたのは、この時である。
ええオチやなあ、私みたいに子供のようなそれではなく、こうやって反撃するんやなあ、と井上章一氏に感心致しました。(言うまでもなく、梅棹忠夫氏は各方面に多大な影響を与えた、尊敬すべき文化人類学の先駆者であります。)神戸に勤務している頃、福知山について、“イノシシと暮らす三田や篠山のもっと北で、どんな山奥なんやろ”というニュアンスのことを言われたことがあります。“神戸もちょっと前は海沿いの寂しい村やったんやで”とは返しませんでしたが。自分の出身地や現住所をからかわれると人は良い気持ちがしませんので、気をつけないといけませんね。
|