京大的アホがなぜ必要か(2020年12月)
本屋さんで、「京大」が題名に付いている本を見かけると、つい買ってしまいます。(悲しい性です。)「京大変人講座」を開講した酒井敏氏の「京大的アホがなぜ必要か」には、示唆に富んだ内容が実にわかりやすく叙述されています。
京大理学部に入学して、最初に複数の先生に言われたことは、“アホなことせい”であり、理学部のガイダンスでは、“この学部では、だいたい三分の一の確率で、学生が行方不明になります”と説明された。(特に当時は、理学部は完全なる京大の看板学部でしたが、確かに潰しが効かない面もありました。)ここでいう「アホ」は「賢い」の反対語ではなく、「常識」や「マジメ」の対立概念。そして、その非常識な「アホ」の判断基準は「おもろい」かどうか。ところが、その京大の「自由(アホ)の学風」という文化は、危機に瀕している。その原因の一つは「教養部の廃止」や「独立行政法人化」といった大学の根幹に関わる改革であり、もう一つは「選択と集中」というキーワードを掲げて無駄な研究を排除して役に立つとわかっている学術のみを推奨する行政や世間の変化である。以上が「序章
京大の危機は学術の危機」で述べられています。
第一章では、“現在は過去の結果であり、未来の原因である”という「因果律」に従えば、“原理的には完全な未来予測が可能だ”という「ラプラスの悪魔」は存在しない、即ち自然界は予測不能なカオスであることを、「ローレンツ・アトラクター」やロバート・メイの「ロジスティック写像」で説明しています。
第二章では、自然界の「自己組織化」の秩序は正規分布を示すランダムなものではなく、不平等性があるスケールフリーネットワークである、と述べています。そして、人間は、場当たり的で無節操、無計画かつ非論理的、効率が悪くて、無駄も多い、(すなわちアホな)、しかしランダムなトラブルに強く、予測不能な未来に対応できるポテンシャルがあるスケールフリー構造を持つカオスの世界を生きる「生き物」と、ルールに則り行動する、整然とした体系の樹形図構造を持つAI搭載の「ロボット」とのハイブリッド的な存在であるとしています。従って、何を計画的に進め、何を場当たり的にやるべきかを見極め、未来を切り開くためには、「選択と集中」だけではうまくいかず、アホを自由に走り回らせた方が良い、と結論づけています。
第三章では学問のタコツボ化(専門化)について、まず述べています。そして、自分にとって新しくて面白いことを気が済むまで追求できる教養部のような環境がイノベーションを起こすには最適であると主張します。(京大教養部は本を正せば旧制第三高等学校であり、名物教授の宝庫。“頭を上げて見回しさえすれば、おもしろい人間やものがいっぱい見付かる所である。学問や文化は言うにおよばず、自然も芸術も政治もみな揃っている。”
と佐野哲郎教養部長は1986年に語っています。)
第四章では、大学には同じ分野でも、新しいパラダイムの構築を目指す研究もあれば、既存のパラダイムをより精緻にする研究もある、と語ります。前者は一発当てれば大きいが、そう簡単に成果は出ません。後者は計画が立てやすく、結果も確実に出てきます。マテリアルを変えるだけで、論文数も稼げ、研究費も稼ぎやすい。(成果主義だけではノーベル賞を受賞するような前者の研究者は激減するでしょう。)
終章では、教養部の名物教授だった森毅先生の“若いうちから、もっとムダせい”、“ぼちぼちでええんや。そのほうがうまく行く”、“誰にでも平等に不平等はやってくる”などの言葉を紹介しています。(私は教養1回生の時、人文系の単位を落とさず、全て最低点の60点で通るという離れ業(笑)を演じたものの、理科系の単位を落としまくりました。2回生の時は数学、物理学、化学、生物学の楽勝講座を山程申し込み、結果お釣りがたくさん出るくらいの単位を教官に施していただきました。その中に森毅先生の数学の単位が含まれるのは言うまでもありません。)そして最後に、政治家、経営者の方へ、大学人のみなさまへ、学生諸君へ、と三者に素晴らしい提言をされて締め括られています。
著者の名誉のために。私の要約ではようわからん、という人も多いでしょうが、実際に本を読めばその内容は誰にでも理解できますし、かつその文章はとても魅力的です。
京大も随分変わった、学生も真面目な優等生が増えた、とよく聞きます。時代とともに、大学が変容していくのは当然です。しかしながら、良好なヴァージョンアップをしながら、素晴らしい伝統は是非残していただきたいと思います。
びっくりするくらいおいしい!ブノア京都(2020年11月)
手頃なビストロで食事して、京焼を見に行こうと妻に誘われて、「ブノア京都」へ伺いました。八坂の塔(法観寺の五重塔)周辺には、「レストランひらまつ高台寺」、「イルギオットーネ」、「パークハイアット京都」など今年は何故だか何回も行きました。
ブノア京都は、清水小学校の外観意匠を残す「ザ・ホテル青龍京都清水」内にあることやカジュアルなビストロであることくらいしか知らないで行きました。スターターはパテ・アン・クルート
ルシアン・タンドレ風、メインはカスレ・ブノア風、デザートはアッフォガート・エスプレッソとプラリネを選択、どれもびっくりするくらいおいしかったです。サービスの女性に率直にそう告げると、妻に“期待してなかったのに予想以上においしいと言う意味なら失礼”と言われましたが、単にトレビアン!と言いたかっただけです。
帰って調べてみると、“「ブノワ」は、1912年パリにオープンして以来100年以上続く老舗ビストロで、温かく心地よいレストランとしてパリのお客様に愛され続けています。2005年より世界各地でミシュランの星付きレストランを展開するデュカス・パリが受け継ぎ、伝統ある店に新風を吹き込むと同時に、そのエスプリを東京とニューヨークにも広げてきました。この度古都京都に、フランスの伝統的なビストロ料理に旬の味わいを取り入れ、モダンに昇華させたメニューを提供する「ブノワ
京都」が誕生します。”とあります。今思えば、表参道に「ブノワ」ができた時に雑誌でその記事を読んだことがあります。また、ガス入りのミネラルウォーターの説明の際、サービスの方がアラン・デュカスの話をするのはなんでだろう、と思っていました。まあ、“デュカス監修だから美味しい”と言う先入観なく素晴らしいと思えて、かえって良かったです。
自死について(2020年10月)
有名な俳優や女優が相次いでお亡くなりになりました。キラキラ輝いていた方ばかりです。亡くなった理由はあれこれ詮索されていますが、真実は本人にしかわかりません、或いは、本人もわからないまま、死に至ったのかも知れません。ドラマ、映画、演劇、CMなどで今後も大いに活躍され、私たちを楽しませてくださっただろうに、どうして…、と思います。
私はある程度重症のうつ病に罹患した経験がありますが、幸いにも希死念慮はありませんでした。と言うより、当時自分には自殺はできないな、と思っていました。自死には、(たとえ衝動的なものであっても、)物凄い勇気、パワーが必要です。実にありきたりな言葉だけど、そのパワーが明日を生きるために使えれば…と思います。半沢直樹に妻の花ちゃんが「生きていれば何とかなる。生きていれば、何とかね」と言ったように。
ビィヤントのカレー、田毎のたぬきそば、天下一品二条駅前店のこってり(2020年9月)
今年のコロナ禍では特にそうですが、飲食店の移り変わりは激しく、その栄枯盛衰は無常であります。「エリタージュ」や「ジャン・ムーラン」のように多くのファンの需要があるのに閉店する店もあれば、シェフが新たなステップアップのために店を畳むこともあります。マリナーラ/モッツァレラ/ゴルゴンゾーラ(2011年10月)で述べた私が好きなスパゲッティの店は見事に3店とも無くなりました。(それぞれの事情があります。)
そんな中、京大病院の近く、1975年創業の「ビィヤント」のカレーは今も食べています。(おばちゃんは最近見いひんけど。)ずっと中辛大盛しか注文しませんでしたが、何十年ぶりかにカツカレーを頼みました。(正直言って、その昔、カツカレーは出てくるのに時間がかかり、カツも脂っぽくて苦手だったけど、)さっと揚げてすぐ出てきたし、カツも随分美味しくなっていました。あるツイートには、ビィヤントのカツカレーは京大病院の医師が難手術に挑む前に食べる勝負メシ、とあったけど、ホンマか。
「田毎」のたぬきそばについては、本屋さんpart.3(三月書房と田毎のたぬき)(2009年8月)にも書いております。大概、丸善京都本店とペアリングしていますが、3ヶ月に2度くらいは食べています。いつも、とても幸せな気持ちになります。
「天下一品」の中では、2019年9月20日に閉店した五条桂店が最強の天一という人も多かったです。私も、京都から福知山へ帰る途中に何度もお世話になりました。2020年6月8日にフランチャイズから直営に変わって、五条桂店Rebootとして復活しました。注文や会計が機械仕掛けになり、味も確かに変わったと思います。「天下一品」 in
北白川(2010年4月)では、北白川の本店こそ本物の「天下一品」だ、と言っておりますが、現在のお気に入りは二条駅前店です。二条駅前店のコッテリの味は私が求める天一に一致しており、駐車場も出入りしやすいです。残念ながら“超弩級らーめん
天下一品”というサイトに今はアクセスできませんが、“天下一品にはたいへん強力な習慣性・麻薬性・依存性が存在し、今日までに数多くの悲劇的中毒者を生み出し続けてきた”という言説には納得させられます。
金沢フレンチENSO(Value over Price)(2020年8月)
私がフランス料理(in
Japan)で感動した二皿は、(随分前の話ですが、)長崎県佐世保市ハウステンボス「エリタージュ」(上柿元勝料理長)のリードヴォーのパイ包みと神戸市「ジャン・ムーラン」(美木剛シェフ)の松茸の前菜の二つです。惜しまれつつ、両店ともに閉店しました。
金沢のフレンチレストラン「Installation Table ENSO L’asymetrie du
calme」の料理はWorth more than the
Priceです。地元の素晴らしい素材、上品で複雑な味、斬新な器、そして一番評価されるべきは客を楽しませようとする情熱です。少し遠いけれども、食事のためだけに金沢まで出かける価値は十分あると思います。
夏を楽しむ(2020年7月)
何十年か振りに体重が60kg台になり、身体が軽くて、調子良い。腹筋運動の成果で、(シックスパックには程遠いが、)腹直筋がくっきり認められる。素直に嬉しい。
ダイニングルームのDOMETICのワインセラーが手狭なので、少し大きめのワインセラーを購入した。迷ったが、さくら製作所のものにした。2温度管理式で、ボルドーのボトルなら155本入る筈だが、スパークリングワインのボトルは大きくて、低温の上室にはそれ程入らない。肝心のワインは、それなりに旨い、決して高くない、赤とスパークリングを集めている。
妻のANA後輩の御主人が扱っておられる柚子入ストリチナヤ2フィンガーをトニックウォーターで割って爽やかに呑むのがアウアブームである。
リビングルームのパキラが代替わりした。うちにいてくれたパキラさんありがとう。長生きしてね。ベランダには、山法師、木槿、白玉椿が、勝手口には檜扇がある。植物に疎い私だけれど、植物は素敵だ。
Surface Pro(2020年6月)
私達家族は、Apple(2013年11月)でも述べたように、Apple(Mac、iPad、iPhone)派です。診療所には数台のWindows
PCが存在しますが、自分で積極的にWindowsを使うことはありませんでした。しかし、今回主として妻が、会計、税理、ネットバンキングなどの業務にWindowsが必要になったため、Surface
Proを導入しました。その質感はApple製品に劣らず、(全然使いこなせていませんが、)タブレットとしても、ノートPCとしても、とても良いと思います。
“駆使できれば、iPad Proはとても有能な相棒だ”と長男は言いますが、私は“iPad Pro がMac
OSで動けば良いのに”と思います。(できないこともないらしいですけど。)
聴く音楽は懐メロ(2020年5月)
何年か前に、長男に“音楽何聴いてる?”と聞いたら、“あいみょんとか、洋楽ではDaniel Powterの「Bad
Day」が一番好き”、と答えました。当時、あいみょんの名前は知っていたものの、その音楽はよく知らず、ダニエル・パウターに至っては何者?と思いました。
あいみょんは2018年の大晦日に紅白歌合戦で「マリーゴールド 」を歌い、その後もヒット曲を連発、VOGUE
GIRLのインタビューでも全然格好をつけないハンサムウーマン振りを発揮しています。“どんな音楽を聴いて育ってきたの?”という質問に、“スピッツ、浜田省吾、平井堅、ユーミン、BOØWY、オザケン、フリッパーズギター。でも自分が学生時代に流行っていた、HYとかORANGE
RANGEなんかもたくさん聞いてきましたし。でもやっぱ歌謡曲は好きで、掘りまくってましたね、最近はずっと原田真二さん聞いてますね、かっこいい。”と答えています。だから、あいみょんの音楽は私のような昭和の人間にも理解できるのですね。
Daniel Powterの「Bad Day」は、2005年リリースのテレビドラマの主題歌です。長男に教えてもらうまでは知らなかったけど、それからofficial
music videoは何回も観ました。良い曲、MVですが、当時の長男の日常はBad Dayやったんやろか、とも思います。
無知に気付いた私は、YouTubeで1960年台から2010年代までの洋楽ヒット曲を勉強しました。60年台の曲は概ね、70年台から80年台、90年台前半の曲はほぼすべて知っていましたが、90年台後半から怪しくなり、2000年台からはほとんど聴いたことがありませんでした。小中高生の頃はラジオからエアチェックし、大学生の頃はLPを買ったり、荒神口のレンタルレコード屋さんで借りたレコードをカセットテープに録音したりして、洋楽の把握も万全でした。勤務医の頃を経て、1994年に開業医になると、とんとその時代に流行している洋楽に触れなくなってしまったのです。(The
Beatlesなどはよく聴いていましたが。)
Ed Sheeran、Maroon 5、Taylor Swift、Katy Perry、Ariana Grande、Carly Rae Jepsen、Camila
CabelloなどのCDをTSUTAYAで借りて、Macのミュージックに入れました。(おそらくこの行為自体が旧態なのでしょう。)こんな歌詞良いんか、というものもありますが、流行るのは納得、とも思います。
とは言うものの、結局聴く曲はほとんど懐メロです。邦楽なら、山下達郎、サザン、ユーミン、竹内まりやの順ですし、洋楽でも、80年台のものばかりです。クラシックやジャズなども、古い音楽ですしね。
ファッション業界はサステナブル一色(2020年4月)
sustainable(持続可能な)という単語は、最近最もよく目にする英単語の一つでしょう。例えば、昨年日本産科婦人科学会の理事長に就任された木村正教授(大阪大学)は“働き方改革法に則ったサステナブルな産婦人科医療体制”の確立を目指しておられます。
VERY2月号のメインテーマは、“誰の中にもサスティナママがいる”であり、“地球環境に関心があり、無理せず女っぽいおしゃれが得意な人”をサスティナママと命名しています。Safari4月号は、“女性にも地球にも優しい男を目指すなら、もはやサスティナブルはお洒落の新・常識!”と訴えています。百貨店の外商の方に、ブルネロ・クチネリの2020年春夏コレクションのカタログと一緒にいただいたGOETHEの別刷には、“地球温暖化を食い止め、サステナブルな社会を築くことが喫緊の課題となった今、あらゆる人間活動に変革が求められている”とあります。そして、ブルネロ・クチネリ氏が考える“人に、自然にやさしい服”は、“森羅万象にやさしいハーモニーをもたらし、再生の時代へと導く服”だと述べています。
そもそも、自分達が潤うように、常に新しいモードを産み出そうとしてきたファッション業界は、本来サステナブルな思想とは対極にあったと言っても良いでしょう。しかし、今やサステナブルやエコロジーが流行になってしまい、ハイブランドでさえも、定番のアップデート、デッドストックや古着の再利用、フェイクファー、フェイクレザー、食肉の副産物のレザーを使ったバイプロダクトなど百花繚乱です。
しかしながら、(経済的なことも含めて、)本当にリサイクルがサステナブルでエコなのか、(動物愛護の観点でも考えなければいけませんが、)毛皮とフェイクファーのどちらが持続可能なのか、など一概には言えません。そして、ハイブランドがサステナブルを高らかに謳っても、その製品のあまりに高い価格との釣り合いが取れない、と思ってしまいます。天邪鬼な私は、昔のBRUTUSのように“贅沢は素敵だ”と言い切る雑誌や、“新しいモード、どや!ええやろ”と自信満々に主張するブランドが今は好きです。(そして、やはり値段もリーズナブルな方が良いです。)
多治見へ美濃焼を見に行く(2020年3月)
まだ不要不急の外出やイベントの自粛がなく、街を歩く人々がほとんどマスクをしていない頃に、美濃焼を求めて、北回り(舞鶴若狭→北陸→名神→東名→中央自動車道)で多治見へ行って来ました。美濃焼は陶磁器としての国内シェアが50%を超えると言います。器に疎い私は、うちでお刺身や焼き魚に日常使う器も、美濃焼の黄瀬戸と織部ということに今更ながら気づきました。
まず、美濃焼ミュージアムへ訪れ、美濃焼の歴史を勉強しました。平安時代の須恵器から発展した美濃焼の発祥や変遷、志野、織部、黄瀬戸、瀬戸黒などの絵付けや焼き方の方法など、とてもわかりやすく説明、陳列してあります。立礼茶室では、(瀬戸黒の技法による)人間国宝である加藤孝造の紅志野のお茶碗で薄茶をいただきました。
続いて、美濃工芸館に向かいました。(もうすぐ店仕舞いされるそうで、既に美濃焼園の方はありませんでした。)そこで、妻と私は、桃山陶に造詣が深い御主人のお話に引き込まれました。そのホームページには、“桃山陶の美意識に基づき、道具としての原点を再現しようとして居る作陶家は焼物師(陶工)と位置付け、また、個人固有の美意識に基づきあらゆる制約を排し、芸術としてのオリジナルを追求する作陶家を陶芸家と解釈させて頂いて居ます。”、“美濃焼園では、焼物師(陶工)の立場を採っていて、過去の伝統に身を置いた作陶家の作品を伝統工芸品と解釈し、過去の物事には一切関わらず、むしろ意識的に排除し、作陶家自身の美意識(オリジナル)の中で造られた焼物を陶芸品と解釈致しております。”とあります。そして、店内には焼物師(陶工)の伝統工芸品を作家の名前を提示せず、ディスプレイしてあります。(荒川豊蔵は御主人も別格に扱っておられますが、加藤孝造や林正太郎などは陶芸家であり、その作品は店内にはありません。)私達はミーハーなので、高名な陶芸家の派手な作品、例えば林正太郎の万葉志野など好きですが、御主人の意見や解釈はとてもよく理解できました。
それから、日も暮れた頃に本町オリベストリートへ向かい、澤千で鰻を食べて帰りました。多治見には是非また行きたいけど、日帰りするには、ちょっと遠いです。
Principle of Charity (or Charitable Interpretation) in Critical
Thinking
(2020年2月)
東京大学文学部で学んでいる妹の次男は、国文学ではなく倫理学を専攻するようで、現在は膨大な知識と先人の考察を自らの脳にインプットしているところです。
“行為の善悪や人間関係の理法について探求し、さらには現代社会の緊急の問題群の原理について考える、そういった様々な倫理学の課題に、本研究室は、古典的テクストの読解と思想史研究を踏まえてアプローチするところに、特色がある。”と、東大倫理学研究室のホームページにあります。長く主任を務めた和辻哲郎は、東京帝大に帰る前に京都帝大文学部に在籍し、学位は京大で取得、京都学派にも数えられる人です。(流石に東大のHPには京都学派の記載はありませんが、)和辻について、“西洋思想と東洋思想の融合および規範学としての倫理学と事実の学としての諸学の統合を目指し、独自の倫理学の体系を築き上げるとともに、広く人文科学一般の諸分野でも成果を挙げた。”と記しています。
自然科学に於いては、論文のフォーマットは決まっており、いかにインパクトファクターが高い雑誌に掲載されるか、総合誌ならNature、Science、ProNAS、医学系雑誌ならNew
England Journal of
Medicine、LANCETなどがファーストターゲットです。全く同じ内容でも、よりチャーミングな論文を書いたり、学会でよりエレガントなプレゼンテーションをしたりできる人は羨ましい限りです。一方、文系の論文や学会発表はどうなのでしょうか。追々聞いてみたいと思います。
古代ギリシアのホメーロスは、甥のテーマの一つだそうです。叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』はホメーロスが実際に作ったものなのか,それとも伝承される既存の歌を編集したものなのか、18世紀末から19世紀を通じて論争され,極端な例ではホメーロスの存在すら否定されています。この問題はまだ完全には解決されていませんが,両叙事詩に作品としての一貫構成が備わっているというコンセンサスは得られているようです。
法哲学者の井上達夫の講義についても語っていました。報道ステーションに於ける興奮して早口な井上を見ていると、なんだかなーと思う部分もありますが、話す内容は理論的だし、学士助手(東大法学部卒業後に即法学部助手になる)だし、法学部の中でも最優秀だったのでしょう。東大法学部は入試に合格するだけなら、それ程難しくありませんが、上位1〜2%くらいはとんでもない秀才がいます。
“東京大はひがし京大、東京都はひがし京都と読み、東の京大、東の京都という意味だ”と説明しておきました。“どうして、本家の京大よりもひがし京大の方の設立が早いのか”と聞かれたら、“本家の京大は失敗できないから、まず明治政府は試験的にひがし京大をつくり、色々と改善の上に本家の京大を開校したのである”と説明します。
福知山にいる間は、『源氏物語』に於いて恋敵を呪い殺す六条御息所のレポートを書いていました。彼女が生霊となって一人語りする林真理子の『六条御息所 源氏がたり』を例に、
“六条御息所を研究するならば、ドロドロの恋を経験しないといけない”と妻は言っていました。
“例えば、古代ギリシャ哲学には矛盾するところが多いが、それを好意的に解釈して、研究する”のだ、とも甥は言っていました。Principle of Charity (or
Charitable Interpretation) in Critical
Thinkingですね。最初から否定してしまうと、対象の理解ができず、ひいては批判することができなくなります。まずは相手の言い分を可能な限り辻褄が合うように好意的に解釈し理解することが肝心です。これは、スポーツや芸術の分野でも当てはまります。(ただし、政治や外交の世界では、根本的な価値観の相違により、この考え方が通用しない場合もあります。)他人に厳しく、自分に甘い、自分と意見が異なる人とは接しようとしない(相手も自分とは接しないほうが良いと考えてしまう)私も、好意の原則(好意的な解釈)を少しは人生に取り入れましょう。
新春雑感(2020年1月)
新潟大学の榎本教授にいただいた今春のお酒は富山の「勝駒」と「満寿泉」です。「勝駒」は大人気なうえに少量生産なために入手困難なお酒でネットオークションに出すと儲かる、またその名前から馬術や競馬関係者に好まれる、また、「満寿泉」は御茶事の際に出すとお酒の愛好者にとても喜ばれる、と妻が言っておりました。両方旨いですが、特に「勝駒」が好きです。
新聞を読まなくなって、随分経ちます。元日に朝日、読売、京都新聞を駅のコンビニで買ってみました。各紙に目を通しましたが、あらためて定期購読しなくても良いかなと思いました。
大晦日の『ガキ使』は最近では出色の出来でした。特に県立ヘイポーお豆ヶ丘高校理事長の天海祐希のパート、キレッキレの滝沢カレンのダンスシーンとそれに続くコウメ太夫のムーンウォークは何回も見ました。
「ジュンク堂書店京都店」が2月いっぱいで閉店するようです。今では「丸善京都本店」へ行くことが圧倒的に多いですが、最近でも四条通の北側を歩くときは、今話題の本をディスプレイしている店頭を覗いています。四条河原町の「THE
BODY
SHOP」で買い物をすると、1月19日で閉店するのでポルタ店かイオンモール京都五条店へ、と言われました。高島屋の靴売り場でクラークスの黒のデザートブーツを買う際に、以前何足か買ったことがある寺町の「クラークス京都」は昨年の7月8日で無くなった、と聞きました。確かに、ネットで書籍は勿論、BODY
SHOPの商品もクラークスの靴も全部買えますが、よく行っていた、しかもお気に入りの実店舗が無くなるのは寂しいものです。そんなこと言ったら、学生時代に友達や妻と足繁く通っていたルーフやワンナイト・スタンドなどの喫茶店や多国籍料理カプリチョス、メキシコ料理ベラクルス、スパゲッティのマリコウジなどなど、今はありませんが。